前回、親の教育サポート力によって、子どもの知識・技能は大きく変わると述べた。しかし子どもは親を選べない。義務教育までしか支えられない親か、高卒までか、大卒までか、あるいは大学院修了までかによって子どもの人生は異なってくる。
親・祖父母の経済力が教育格差につながっているのである。今や祖父母が孫の教育にお金を出すということが珍しくない。自身の老後と孫の教育費を天秤にかけて悩んでいる人も少なくない。これが日本の教育を取り巻く現状である。
質の高い教育を受けることができなければ、文化資本を養うことができず、感情資本にも積極的な影響を与えることができない。もちろん親が貧しくても貧困状態を乗り越えて文化資本、感情資本、社会関係資本を高め、たくましく人生を生き抜いている人は数多くいる。しかし親の経済資本と子どもの教育水準は密接な相関関係にある。経済的なサポート力のない親は、子どもに相続すべき財産もほとんどなく、子どもが経済資本を高めるための高い知識や技能を身に付けるための教育も保障できないことになる。その結果、教育水準を媒介にして貧困層の固定化、被差別層の固定化が進行しているのである。
その根源は、まぎれもなく国の教育政策にある。その教育政策を2017年10月22日の衆議院選挙の公約では、教育無償化を掲げる政党が多くなった。積極的なことであるといえるが、大学に入学するための学力も学校外学習費にどれだけお金を掛けるかによって大きな影響を受けていることを忘れてはならない。
フランスの教育政策は日本とは大きく異なり、貧しい層が質の高い教育を受けられるようになっている。端的にいえば親の経済力に規定されない子どもの教育水準なのである。スウェーデンでは鉛筆やノートに至るまで公的機関が支給する。フランスやスウェーデンも多くの社会矛盾を抱えているが、少なくとも教育における機会均等を徹底しようとする政策、教育面の個人負担を軽減する政策は、日本も謙虚に学ぶ必要がある。
日本では、子どもを高校から大学へ行かせる7年間で平均1000万円(2004年度「文部科学白書」)が必要になり、保護者世代に大きな負担となっている。生まれた家庭によって子どもが受けられる教育が決まってしまう社会は活力がなくなり、努力すれば可能性がある社会は活力が増すことになる。OECDは1995年頃から日本の貧困層の固定化が始まっており、貧しい親から生まれた子は貧しくなると指摘し、これらを是正するために日本の貧困層に質の高い教育を受けられるような政策を遂行する必要があると提言している。まさにOECDのいう通りだ。公教育に他国以上のお金をかけ、貧しくとも能力が磨け、夢が実現できる社会であれば、日本の活力も公正採用もより良い方向に進むといえる。それらが実現してこそ真の意味での公正採用といえるだろう。
北口 末広(近畿大学人権問題研究所 主任教授)